『チー付与』のアニメは、六志麻あさの小説から生まれた業務用餅の漫画版をもとに制作されている。
小説と漫画の大きな違いとは別に、アニメでは台詞を一部減らし、背景や人物の動き、声の演技を加えて漫画の持ち味を映像へ移している。
リリィの心情やギャグの見せ方など、何を引き継ぎ、どこを映像向けに変えたのかを具体的に比べる。
【アニメ・チー付与】
アニメと漫画は何が違う?
原作との関係と改変点
アニメ第3話までの内容と、
公開された制作コメントに触れる。
漫画の先の事件や結末の詳説は含まない。
第1章 アニメは漫画版がもと? 小説・漫画・アニメのつながり
版 |
作品のつながり |
|---|---|
小説 |
六志麻あさによる出発点 |
漫画 |
業務用餅が独自の展開を加える |
アニメ |
漫画版を土台に映像化 |
六志麻あさの小説から、 業務用餅の漫画へ
『チー付与』を見ていると、
異世界の冒険なのに、妙に生活感のある会話や、
力の抜けた顔に引っ掛かる。
小説の紹介で想像した作品と違うと感じたり、
漫画の評判を聞いて、
アニメも同じ話なのかと気になったりする。
その戸惑いには、作品がたどってきた順番が関わっている。
アニメがもとにしているのは、
業務用餅による漫画版になる。
作品の出発点には六志麻あさの小説があり、
その小説をもとに漫画が生まれ、
漫画版を映像にする形でアニメへつながっている。
小説の文章を直接そのまま映像へ置き換えた作品とは、
間にあるものが異なる。
公式の原作表記には、
六志麻あさ、業務用餅、kisuiの名が並び、
月マガ基地で連載する作品が示されている。
複数の名前があるのは、
同じ役割の作者が三人いるという話ではない。
小説、漫画、人物の原案に関わる仕事が重なり、
その先にアニメが作られている。
このつながりを知ると、
小説には見当たらない人物像や展開に触れた時、
すぐにアニメ独自の追加と考えなくて済む。
映像で初めて加わったものもあれば、
漫画ですでに形になっていたものもある。
見慣れない要素があることと、
映像化の時に新しく作ったことは同じではない。
小説版でも、レインは強化付与を行う魔術師として、
ギルドから一方的に追い出される。
装備へ力を与える人物が、
その働きを軽く扱われたところから物語が始まる。
追放と強化という入口は、
漫画やアニメへつながる共通の骨組みになる。
ただ、入口が共通しているから、
その後の会話や人物関係まですべて同じとは限らない。
名前が同じ相手でも、
話の中で担う立場や、
ほかの人物との距離が変わることはある。
『チー付与』では、漫画版が小説から
大きく変わった作品として公式にも紹介されている。
その漫画をもとにするアニメには、
漫画が作ってきた会話の癖や、
真面目な場面にも入り込む可笑しさが受け継がれる。
原作小説に近づけるため、
漫画の独自部分をまとめて取り除くという制作方針ではない。
漫画で好きになった顔や言葉が、
映像の土台になっている。
ここは、アニメから入り、
小説にも手を伸ばした時に驚きやすいところになる。
アニメの続きを読みたいと思っても、
同じ人物が同じ関係のまま進むとは限らない。
小説と漫画は作品のつながりを持ちながら、
物語の細部まで同じ道を進むものではない。
一方、アニメと漫画が同じ土台を持つことは、
一コマずつ完全に同じということでもない。
漫画には読者がページをめくる時間があり、
アニメには決まった尺の中で人物が話す時間がある。
出来事を引き継いでも、
その出来事が届く順番や長さには調整が生まれる。
アニメが引き継いでいるのは、 漫画版の人物と物語
たとえば、漫画なら顔を見てから台詞を読み直せる。
映像では、顔の動きと声が一緒に流れていく。
少し間を置くか、すぐ返事をするかによって、
同じ言葉でも戸惑いや呆れが強く感じられる。
物語を変えずに、
受ける印象が変わる余地がある。
そのため、アニメと漫画の違いを考える時には、
人物の過去を書き換えたのか、
同じ過去を別の見せ方で伝えたのかで、
話が変わってくる。
リリィが傷を抱えること自体と、
その苦しさが声や動きでどれほど伝わるかは、
別々に考えられるものになる。
監督の本間修は、漫画の持ち味を生かす方向へ
制作方針を固めたと語っている。
漫画とまったく別の筋書きを作ることより、
読む時に感じる妙な可笑しさを、
画面の中でも残す方向になる。
見終えた時に、漫画と地続きの作品に触れた感覚を目指している。
だから、アニメで変な会話が出てきた時、
その変さがすべて映像スタッフの付け足しとは限らない。
漫画の側にある癖を残そうとした結果、
一般的な冒険ものなら省かれそうなやり取りが
続くこともある。
整えればよくなるとは言い切れない作品の性格が、
ここにある。
反対に、動きや声で魅力が増したからといって、
漫画にはその人物の面白さがなかったとも言えない。
紙面にある表情や言葉を、
別の形で強く感じられるようになる場合もある。
映像で見つかった魅力と、
映像で新しく作られた設定は同じものではない。
三つの版を見た人の感想が食い違う時にも、
この違いが関わる。
ある人が小説の人物を語り、
別の人が漫画の人物を思い浮かべていたら、
同じ名前なのに話が合わなくなる。
どちらも作品に触れているのに、
出発点としている姿が異なる。
漫画をもとにするという説明には、
アニメへ期待するものも関わってくる。
小説の筋を初めからなぞる作品を待つ人と、
漫画の会話が声になるのを待つ人では、
楽しみにする場面が違う。
アニメが向き合っている土台は、
後者につながる漫画の側になる。
同じ題名を使っていても、
途中に漫画の創作がある。
その存在が、
単なる挿絵付きの小説とは違うものを生んでいる。
アニメの原作表記に漫画の描き手がいることは、
絵柄だけでなく、その物語を土台にしているという
つながりにもなる。
アニメ、漫画、小説には、
共通するタイトルと入口がある。
それでも、三つを一枚の同じ原稿として重ねることはできない。
アニメは漫画を土台にし、
その漫画は小説を出発点として独自の道を広げてきた。
この順番が、
見比べた時の違和感の最初の答えになる。
第2章 「小説と漫画が大きく違う」と 「アニメで変えた」は別の話
原作者による「99割違う」という紹介
『チー付与』には、小説と漫画で内容が
九十九割ほど違うという、
思わず聞き返したくなる紹介がある。
その言葉だけを見たら、
アニメも元の話をほとんど残していないのかと思ってしまう。
ただ、その説明が比べているのは、
まず小説版と漫画版になる。
原作者のこの言葉は、
二つの版の違いを強く伝える表現として、
公式の作品紹介にも載っている。
九十九割は、頁数や台詞を数えて求めた変更率ではない。
小説をそのまま絵にしたつもりで読むと驚くほど、
漫画には独自の部分があるという案内に近い。
ここをアニメと漫画の変更率として受け取ると、
比較する相手が入れ替わってしまう。
小説から漫画へ移る時に生まれた違いが、
さらにアニメで加えられた変更のように見えてしまうためになる。
アニメが漫画をもとにすることと合わせると、
その混同はほどけてくる。
小説の最初では、レインは自分の付与が
ギルドの装備を支えてきたことを語る。
その働きがあるのに追放されるという不条理が、
出発点に置かれる。
漫画の紹介にも、追放後に力を回収し、
強化した装備を持つという骨組みは残っている。
一方、共通する導入があるからといって、
人物の心の動きや、
その後の役割まで同じと決まるわけではない。
追い出された主人公が新しく出会う人々を、
どんな会話で近づけるか。
そこに笑いや重い過去がどう入るかで、
同じ入口から違う読み心地が生まれる。
分かりやすい例の一つが、
ニーナの位置づけになる。
監督は、小説ではヒロインの彼女が、
漫画では王道のヒロインではなくなっていると説明している。
アニメで彼女を見て想像と違うと感じても、
その違いをすべてアニメ化の変更とすることはできない。
ただし、王道ではなくなったという説明だけで、
出番がない、重要ではないとまで言うこともできない。
どんな役割を担うかと、
作品に必要かどうかは別になる。
小説の肩書をそのまま漫画へ持ち込めないことが、
この人物の例から伝わってくる。
同じように、リリィの苦しい過去や
マーガレットとの関係も、
アニメで初めて生まれた要素として扱えない。
漫画の巻紹介には、過去の記憶へ向き合い、
関係が変わる展開が示されている。
アニメで強く印象に残ったから、
すべて映像独自というわけではない。
漫画ですでに変わっていた部分を、 アニメ独自とは扱わない
ここは、暗い設定が足されたのかと感じた時にも関わる。
漫画にある傷を映像で丁寧に感じることと、
アニメが新しい悲劇を追加することは違う。
今見ている人物の苦しさがどこから来たかを分けると、
比較の答えも変わってくる。
また、小説と漫画の関係を、
どちらかが偽物という話にする必要もない。
小説を書いた六志麻あさと
漫画を描く業務用餅の仕事は、
それぞれ公式に示されている。
原作者自身が違いを紹介する作品であり、
無関係な作品が勝手に同じ名前を使っている状況ではない。
それでも、原作者が違いに触れていることだけで、
個々の場面を誰が考え、
どのように話し合ったかまでは分からない。
具体的な制作経緯を知らない部分へ、
作者の命令や対立を付け加えることはできない。
大きな違いがあることと、
その裏側の事情は別に残る。
アニメを見る時に現れる疑問は、
小説との違いか、漫画との違いかで答えが変わる。
小説にないからアニメ独自、
という一歩を挟む前に、
漫画でどうなっていたかが間にある。
同じ原作という言葉が複数の段階を指すことが、
ややこしさにつながっている。
物語の骨組みを受け継ぎながら人物の役割が変わることと、
台詞を少し短くして映像へ収めることも、
変更の大きさが異なる。
どちらも違いには含まれるけれど、
同じ種類の改変ではない。
『チー付与』では、
その二つの段階が重なって語られやすい。
小説の展開を知っている人には、
同じ名前なのに先が読めない面白さが
生まれる場合もある。
一方で、好きな人物像と違って戸惑うこともある。
どちらの反応も、同じ入口を持つ作品が
別の道を進んだことから起こるものとして考えられる。
変わったという言葉にも、
受け止め方の幅がある。
人物が別の役目を担う変化と、
表情を動かすために一枚の顔へ複数の絵を加える変化では、
見た人の疑問も違う。
前者は物語の行き先に、
後者は同じ場面の感じ方に関わりやすい。
その二つが混ざると、
声で印象の変わった相手まで、
漫画には存在しなかった性格として語られやすくなる。
けれど、別の人物になったのか、
同じ人の癖が耳で分かるようになったのかは別になる。
文字だけの時には自分で補っていたものが、
映像で一つの形を取っている。
九十九割違うという言葉が示しているのは、
まず小説と漫画の距離になる。
アニメは、その独自色を持った漫画をもとに作られている。
アニメまで全部別物になったという結論へ飛ばず、
漫画から何を引き継いだかへ戻ると、
実際の映像化の工夫が見えてくる。
第3章 漫画の台詞は全部そのまま? アニメでは一部を減らしている
読む台詞と、声で聞く台詞の違い
漫画では笑えたやり取りが、
声になると少し長く感じたり、
逆に短い一言が強く耳に残ったりする。
画面の中で人物が話す時には、
文字の量だけでは測れない時間が生まれる。
『チー付与』の台詞にも、
そうした映像へ移すための調整が入っている。
本間監督は、漫画より台詞を
少し減らしていると語っている。
ただし、どんどん短くすればよいとも考えていない。
切り詰めすぎれば、漫画特有のくどさや、
普通なら通り過ぎそうな言葉の可笑しさも失われる。
その両方の間で調整している。
漫画の読者は、
吹き出しを読む速さを自分で変えられる。
気になる言葉があれば止まり、
顔と台詞を見直して笑うこともできる。
アニメでは、人物が次の言葉を話せば時間が先へ進む。
見る側が動かせる速さと、
作品の側で決める速さに違いがある。
たとえば、同じ返事を二度繰り返す会話でも、
漫画なら短く読み飛ばすことも、
しつこさを味わうこともできる。
声では、二度目をどれほど間を空けて言うかが決まる。
その長さによって、呆れているのか、
理解していないのかという印象まで変わってくる。
これは、作品内の特定の台詞を追加したという話とは別に、
映像の会話に生まれる違いになる。
同じ文章が残っていても、
返事の早さ、息の入り方、
相手が待つ時間によって、聞こえ方は変わる。
文字を変えなければ印象も同じというものではない。
逆に、文字が減っても、
表情や動きが同じ気持ちを伝える場合はある。
言葉で全部説明しなくても、
相手を見たまま止まる顔や、
困ったような声で伝わるものがある。
台詞の数と、画面から受け取れる人物の情報量は、
必ずしも同じ割合では増減しない。
ただ、『チー付与』の会話には、
要点だけにならないところにも味がある。
話を進めるためには不要そうな返しでも、
その人の癖や、仲間との距離が出ることがある。
きれいに通じる会話だけにすると、
人物同士の妙な引っ掛かりが薄くなり得る。
レインの言葉も、結論だけを抜き出すと
頼もしい主人公の台詞に寄りやすい。
けれど、周りと少しずれた受け答えや、
格好がつききらない反応があることで、
ただの立派な人にはならない。
短くする作業には、
その人らしさまで失う難しさがついてくる。
漫画のどの一言が残ったかを見比べる時には、
短くなったという事実だけでは、
その場面の変化を説明しきれない。
残った言葉の前後へ、声や表情が何を加えたかも関わる。
削除の量だけを大きな改変の尺度にするには、
映像には別の伝え方がある。
減らしすぎると消えてしまう、 独特のくどさや可笑しさ
もっとも、台詞を減らしているという制作上の説明から、
特定の場面が丸ごと消えたとまで推測することはできない。
短い返事を省くのと、
事件や人物の関係をなくすのとでは、
物語への影響が異なる。
分かっている調整は、
台詞の一部を間引く方針になる。
その方針も、毎回同じ数だけ減らす
機械的なものとして語られてはいない。
シリアスな場面の気持ちよさへ寄せすぎると、
漫画らしい後味が抜けるという悩みがある。
聞きやすくすることと、
癖のある会話を残すことが、
いつも同じ方向を向くとは限らない。
見る側にも、テンポがよくなって入りやすいと感じる部分と、
漫画の一言が欲しかったと感じる部分があり得る。
どちらかの感じ方を間違いにはできない。
同じ台詞へどれだけ留まりたいかは、
その人物や場面への思い入れでも変わってくる。
少し長い会話でも、
その場にいる人たちが相手へどう応じるかで、
関係が分かることがある。
用件が済んでもやり取りが続くところに、
他人行儀ではない空気が生まれる。
『チー付与』の台詞の調整には、
進行だけでは測れないそうした楽しさも関わっていると考えられる。
台詞をすべて読み上げることが、
そのまま漫画と同じ感触になるとは限らない。
声で続く時間には、
文字で読む時間とは違う重さがある。
アニメは言葉を少し減らしながら、
減らしたらなくなってしまう可笑しさも
残そうとしている。
また、文字なら一度で把握できる短い情報も、
声では発音する時間を必要とする。
画面に物が見えていれば、
その名をすべて台詞で言う必要が薄くなる場合もある。
逆に、絵だけでは伝わりにくい関係を、
声の反応が助けることもある。
漫画で好きになった会話が短くなると、
少し寂しく感じることはある。
その気持ちは、台詞の役割を理屈で説明されても
消えるとは限らない。
アニメ化の調整があることと、
残っていてほしかった一言への愛着は、
同時に存在できる。
一方、声になることで、
漫画ではさらっと読んだ返しが
笑いどころに変わることも考えられる。
返答を待っている相手の顔や、
思いがけない言い方が耳へ残るためになる。
同じ会話に、新しく立ち止まる場所ができるのも、
映像ならではの変化になる。
だから、漫画より短い部分があっても、
それだけで作品の癖をなくす方向の変更とは言い切れない。
どこを短くし、どこにはあえて言葉を残すか。
その選び方が、流れる映像の中でも、
この人物たちの会話と感じられるための
調整になっている。
第4章 街や建物の印象はどう変わる? 漫画の余白を背景で補う
表現 |
アニメでの調整 |
|---|---|
台詞 |
一部を減らして会話を組む |
背景 |
空間の情報を描き足す |
作画 |
漫画のラフな感触も残す |
声 |
人物の癖や気持ちを演技にする |
漫画で細部が省かれた場所にも、 映像では空間が必要になる
『チー付与』の画面には、
異世界らしい場所なのに、
どこか身近で雑然とした雰囲気がある。
きれいな城や森だけを期待すると、
何かが混ざっているように感じる。
その場所の見え方にも、
漫画からアニメへ移る時の工夫がある。
監督が具体的に挙げている違いの一つが、
背景の描き込みになる。
漫画で細部を省けた場所も、
映像で人物を動かすには、
ある程度まとまった空間として描く必要がある。
何もない部分をただ空けたままにはしにくく、
周囲の情報が増えていく。
漫画では、人物の顔と吹き出しだけで会話が続いても、
その場の関係を読める。
前のコマで場所が分かっていれば、
次のコマに壁や床が全部なくても困りにくい。
読み手が場所を覚えていることを使って、
顔や言葉へ絵の力を集められる。
アニメでは、同じ会話でも
画面の中で数秒間過ごすことになる。
人物が立ち位置を変えたり、
視線の先が映ったりすれば、
そこに何があるかも必要になる。
漫画で言い切らずに済んだ空間が、
画面の中で具体的な形を持っていく。
ただ、描き足すほど
漫画の感触へ近づくとは限らない。
すべてを均一に整え、隅々まできっちり作ると、
人物の崩れた顔や、
力の抜けた会話と少し合わなくなる可能性もある。
情報が増えることと、
同じ雰囲気が残ることは別の問題になる。
そこで、背景の線や筆の感じにも工夫が入る。
監督は、まっすぐ整いすぎない線や、
絵の手触りを生かす方向について説明している。
場所として成立させながら、
きれいに整いきらない感じも残す。
その両立が美術の課題になる。
これは、作り込みが足りないから
形がゆがんでいるという話ではない。
整っていない印象を、
画面全体の調子として選ぶこともある。
人物が急に奇妙な顔をしても、
周囲の世界から浮きすぎない。
背景にも、会話や表情と合う癖が加わっている。
また、近代的なものが混ざる世界の雰囲気も、
制作側が意識している点になる。
剣と魔法の物語なら必ずこういう街並み、
という一種類の見た目へ固定しない。
作品にもともとある混ざり方を、
背景の具体的な情報へ移している。
そのため、現代的に見えるものが画面へ出たから、
すべてアニメの思いつきとも言えない。
漫画の世界自体に、
一般的な異世界ものから外れるものがある。
もとにある混在と、
アニメ化で補われた細部が重なるため、
目に入った物を一律には分けられない。
描き込みながら、 線や筆の粗さも残す工夫
一方、背景を補ったことから、
そこで暮らす人の過去や町の制度まで
新しく設定されたと考えるのも広げすぎになる。
画面として場所を作ることと、
物語の重要な設定を変更することは異なる。
見た目の情報が増えた分だけ、
筋書きが変わるわけではない。
背景があると、同じ会話でも
人が生活している場所として感じやすくなる。
人物の周りに、使われていそうな物や建物の形がある。
台詞が妙に現実的でも、
そこに日常があると、単なる浮いた冗談より、
その世界の人の会話として近づいてくる。
ただ、その生活感をどう感じるかは、
見る側によっても変わる。
落ち着かない場所に見える人もいれば、
雑然としているから入りやすい人もいる。
背景を増やした工夫が、
必ず同じ気持ちよさへ届くとは限らないところも、
映像の見比べで面白い部分になる。
漫画の白い部分は、
何も考えられていなかった場所とは限らない。
描かないことで視線を人物へ集める働きもある。
アニメは、その働きをそのまま白い画面にするのではなく、
色や線、画面の配置で
人物と空間の釣り合いを取ることになる。
この違いは、人物の台詞を変えなくても起こる。
何もないように見えたところへ町や部屋が広がれば、
相手がどこで言葉を発したかも強く感じる。
漫画と同じ会話なのに雰囲気が違う時、
その差が顔や声だけではなく、
周りの絵にある場合も考えられる。
背景が具体的になると、
人物が手を置く場所や、
次に歩き出す方向も見える。
会話の中身を変えなくても、
体がその場所にいる感覚が加わる。
吹き出しの周りにあった余白が、
歩ける部屋や通りへ変わるところに、
漫画と違う広がりがある。
その広がりを、
何もかも説明しきった世界へ寄せる必要はない。
細部が増えても、奇妙なものが混ざる驚きは残せる。
見慣れた道具が異世界の中にある戸惑いも、
作品の調子と結びついていれば、
その場所らしさへ変わっていく。
一枚の背景に目を留める時間が増える分、
色の組み合わせも場面の印象へ関わる。
漫画の線から自分で思い描いていた空間が、
アニメでは決まった色を持つ。
想像と違う町に見えたとしても、
それだけで原作の設定を変えたことにはならない。
街や建物の描き込みは、
漫画にない物語を勝手に増やすこととは同じではない。
省かれていた空間を映像として形にしながら、
漫画の粗さや混ざった世界観も残す。
背景が豊かになっても、
別の作品のように整えすぎないところへ
工夫が向けられている。
第5章 リリィの過去はアニメ独自? 漫画の心情を映像でどう見せるか
仲間を失った傷は、 漫画にあるものを土台にしている
リリィが戦えないと知ると、
強い冒険者という紹介との違いに驚く。
格好よく剣を振るう姿を思い描いたところへ、
過去への恐怖が出てくる。
アニメでその苦しさが強く残ると、
映像化に合わせて重い設定を加えたのかと
気になることもある。
けれど、仲間を失った過去と、
その後のリリィの状態は、
アニメで初めて生まれたものではない。
漫画にも、彼女が過去へ向き合う物語がある。
講談社の漫画3巻の紹介でも、
燐光竜との対峙を通して記憶を思い出す流れが示されている。
そのため、リリィが傷を抱えること自体を、
アニメ独自の改変として挙げるのは違う。
もともとの物語にある重さが、
声や動きの加わった形で届いている。
設定の追加と、
同じ設定を強く感じるようになったことの間には違いがある。
本間監督も、リリィの心情は
漫画にあるものをもとにしていると説明している。
そのうえで、気持ちの浮き沈みを
アニメとして生かすことに力を入れている。
過去を別のものへ書き換えることより、
その過去を抱える現在の人を
どう見せるかに関わる話になる。
漫画の表情は、一枚の絵として止まっている。
読者はその顔を長く見てもよいし、
次の言葉へすぐ進んでもよい。
アニメになると、言葉が出る前の一瞬や、
話した後に顔が戻るまでの時間も表現になる。
静止画とは違う部分へ気持ちが入り込む。
たとえば、つらい話をする時に返事が少し遅れるだけでも、
言葉にする負担を感じることがある。
これは特定の未確認場面を指すものではなく、
映像が持つ伝え方の違いになる。
何を話したかだけでなく、
どう話せたかも目と耳へ届く。
同じ悲しそうな顔でも、
声が揺れるか、いつもの調子を保とうとするかで
印象が変わる。
泣くことを強く見せればつらさが前へ出る一方、
抑えた声に苦しさを感じる場合もある。
漫画と違って聞こえた時、
その差が台詞の変更とは限らない。
また、リリィの過去には仲間との関係があるため、
一人の表情だけで完結しない。
話を聞く相手がどう反応するか、
どれほど待つかでも、場面の居心地が変わる。
画面に並ぶ人物が同じ時間を過ごすことで、
つらさを一人で抱えているのかという距離も感じられる。
ただ、心情を丁寧に描くことを、
いつも涙や説明を増やすことと同じにはできない。
静かにしている時間や、
明るい言葉が途中で止まるような変化にも、
気持ちは表れる。
映像で重く感じられても、
設定を増やしたとは限らないのは、
その伝わり方があるためになる。
怖さや立ち直る気持ちを、 表情・動き・声で伝える
監督は、この1クールの心情の土台として
リリィを重視している。
これは制作方針としての説明であり、
未放送部分がすべてすでに描かれたという話ではない。
序盤の苦しさが先の変化へつながるよう、
まとまった長さで人物を捉えていることが分かる。
それでも、リリィを中心にするから
レインが主人公ではなくなった、
と置き換えることはできない。
物語を動かす人物と、心の変化を大きく担う人物は、
必ず同じ一人になるとは限らない。
レインと周りの人々の関係の中で、
リリィの時間が重く扱われている。
リリィの苦しさを描く時にも、
作品全体の奇妙な会話はなくならない。
ずっと沈んだ作品へ変えるのではなく、
傷のある人が、
普段の仲間とのやり取りの中にもいる。
真面目な場面だけを切り出すと見えにくい、
その人の日常が続いている。
だから、重い過去の直後に
少し力の抜けた会話が入っても、
それだけで彼女の傷を軽くしたとは限らない。
つらい経験を持つ人にも、
笑ったり、相手へ呆れたりする時間はある。
どの調子でつなぐかによって、
気持ちの連続性が変わる部分になる。
一方、漫画のほうでは自分で止まって読めた場面が、
アニメでは次へ進むため、
余韻が短いと感じる場合もある。
その逆に、声が付くことで、
文字だけの時より長く心に残る言葉もある。
内容の一致だけでは、
同じ重さで届くことまで保証されない。
リリィとマーガレットの事件は、
漫画にもある二人の関係になる。
アニメで心が揺さぶられた時、その重さは、
映像で初めて加えた悲劇ということではない。
漫画から引き継いだ出来事へ、
表情や声が加わり、
登場人物が過ごす時間として届いている。
リリィの話を知っている人なら、
顔の動きや声を通じて、
同じ言葉をもう一度違う形で受け取ることになる。
先を知っていても、話し出すまでの時間や、
相手へ返す調子までは、
漫画を読んだ時の自分の想像とそろうとは限らない。
逆に、アニメで初めて知る人には、
声と表情を含めた姿が最初のリリィになる。
漫画を後から読むと、
同じ場面の顔や言葉に、
アニメの声を重ねてしまうこともある。
どちらから出会うかによっても、
違って感じる部分は動いてくる。
リリィの過去が気になった時、
漫画にも同じ傷を抱えた人物がいると分かることは、
一つの答えになる。
アニメだけが急に暗くしたのではなく、
漫画にある心の動きを映像で感じる作りになっている。
苦しさと普段のやり取りの両方を持つ人物として、
彼女はつながっている。
第6章 声がつくと人物はどう変わる? レインたちの演技と印象
レインを格好よくしすぎない演技の調整
漫画では何気なく読んでいた人が、
声を聞くと急に好きになることがある。
逆に、自分の頭で鳴っていた声と違って、
最初は戸惑うこともある。
アニメと漫画の差には、
設定や台詞を変えなくても起こる、
声の印象の違いがある。
『チー付与』では、
レインを格好よくしすぎないように演技を調整したことが、
監督から語られている。
頼もしい言葉を話す時にも、
きれいな英雄像へ一直線に寄せるわけではない。
漫画で周囲とやり取りする彼の、
少し格好がつかない部分も残そうとしている。
レインは強い力を持っていても、
すべてを涼しい顔で解決する主人公としてだけは動かない。
会話のずれや、
自分の言葉が周囲へどう届くかに、
その人らしさがある。
声が堂々としすぎると、同じ文章でも、
そのずれが頼もしさに変わって聞こえる場合がある。
そこで格好よさを抑えることは、
力まで弱くする改変とは異なる。
能力や行動の結果は同じでも、
発する言葉がどのくらい様になるかは変わる。
頼りになる人なのに、
常に決め顔ではいられない。
その揺れが、仲間と並ぶ時の可笑しさにつながる。
また、周りが彼に返す声も重要になる。
相手を崇めるように返すのか、
いつもの調子で突っ込むのかで、
同じ人物への距離が変わる。
主人公の声だけを立派にするより、
やり取りの中にある気安さが残ることも、
漫画からつながる部分になる。
マーガレットについては、
最初に試した美少女らしい声より、
青山吉能の普段の声に近い方向が選ばれたと
監督が説明している。
可愛い見た目に合わせるだけでなく、
話した時にその人らしい癖が出ることを
重視した調整になる。
ここで声の方向を変えたことは、
マーガレットの家族関係や過去を書き換えた話ではない。
何を経験してきた人物かという設定とは別に、
その人が日常でどんな調子の言葉を出すかを選んでいる。
人物像を伝える入口の変更に近い。
怒っている時も、気が抜けた時も、
いつも同じ勢いで話す人とは限らない。
真面目な場面の声が強すぎれば、
その後のふざけたやり取りへ戻る時に、
別人のように聞こえる可能性もある。
監督が語る調整にも、
その二つの調子をつなぐ難しさが出ている。
視聴者にとっても、
初登場の印象が後から変わる余地がある。
最初は厳しく感じた声が、
関係が近づくと遠慮のない話し方として聞こえることもある。
声の特徴を変えなくても、
誰に向けて話しているかで、
受ける印象が動く。
マーガレットやコーネリアスに加わる、 声の調子と反応
コーネリアスでは、
古川慎の演技によって人物の魅力が広がったと
監督が語っている。
強がった調子と、
内側の小心さが感じられる話し方が加わることで、
ただの嫌な相手という印象だけでは終わらなくなる。
台詞の内容と、言い方から漏れるものが重なる。
強いことを言っているのに、
どこか余裕がなさそうに聞こえる。
その食い違いは、
声が加わることで感じやすくなる人物像の一つになる。
本人が語りたい自分と、
声から伝わる実際の様子が違えば、
可笑しさも哀れさも生まれる。
ただし、演技で小心な面を感じたことを、
アニメが新しい性格設定を丸ごと付け足したと
決めることはできない。
漫画の顔や台詞の中にあったものが、
声で分かりやすくなる場合もある。
監督も、声が付くことで人物への発見があったという形で話している。
ニーナの声には、別の狙いもある。
漫画では王道のヒロインとは異なる立場になる彼女へ、
あえて王道らしい雰囲気の声を求めたと語られている。
役割へ単純に声を合わせるだけではなく、
その組み合わせのずれも含めた選択になる。
このように、声が付くことは、
漫画の文字を聞けるようにする以上の変化になる。
格好よく聞こえるか、
ふてぶてしく聞こえるか、
余裕があるように聞こえるか。
同じ一言の中へ、
人物が自分をどう見せたいかまで入り込む。
一方で、声の印象が自分の想像と違うことも、
見比べる時の率直な反応になる。
漫画で読者が作った話す速さや声の高さは、
それぞれ異なる。
アニメの一つの演技にまとまれば、
その違いに驚く人がいること自体は不自然ではない。
声が一つに決まると、
漫画で別々に想像していた人同士にも、
同じ返事の音が共有される。
ものまねしたくなる語尾や、
耳に残る間が生まれることもある。
人物を思い出す時、
顔の形だけでなく言い方も浮かぶようになる。
その一方、声を付けることは、
すべてを大げさにすることではない。
軽い返事を軽いまま出すから、
次の強い言葉が際立つ場合もある。
演技の抑揚は、足し算だけでなく、
あえて力を抜くことによっても人物の癖を作っている。
レインを囲む人たちが別々の調子で話すから、
一人の声だけでは生まれない可笑しさもある。
自信ありげな言葉へ、気のない返事が戻る。
そんな小さな差も、
同じ文字を読んだ時とは違う
会話の手触りになる。
レインたちの演技には、
人物を整えすぎないための調整がある。
頼もしさや可愛さだけへ寄せず、
言葉が少し外れる感じや、
強がりの裏から漏れるものも声にする。
アニメで人物の印象が変わる時、
その差は物語の改変ではなく、
声で見つかった顔にも生まれている。
第7章 笑える場面と重い場面はどうつなぐ? 漫画らしさを残すアニメ化
しんみりした直後にも、 ふざける人物たち
さっきまで重い話をしていたのに、
もうそんな会話をするのか。
『チー付与』では、
しんみりした気持ちのまま次の場面へ進むと、
急な軽さに少し戸惑うことがある。
笑いと悲しさがきれいに別々の箱へ入っていないところも、
漫画から映像へ移す時の難しさになる。
本間監督は、感動へ寄り添う形にすれば、
気持ちよく感じる部分は作れるとしつつ、
それだけでは漫画の持ち味が抜けると語っている。
つらい話の後はずっと静かにする、
頼もしい言葉で整えて閉じるという一つの調子へ、
全部を寄せない方針になる。
これは、登場人物が悲しんでいることを
どうでもよいと扱う話ではない。
重い経験をした人が、
いつもその気持ちだけで過ごしているわけではないから、
普段の声や癖も戻ってくる。
傷のある人物に、悲劇の説明役以外の日常を
残すことにもつながる。
一方で、映像では場面の切り替わる速さが決まっている。
漫画なら、つらい言葉の後に
自分で一息ついてからページをめくれる。
アニメでは、次の返事や動きが始まれば、
気持ちも次へ押される。
漫画と同じ順番でも、
切り替わりが急に感じられる場合がある。
そこで関わってくるのが、
台詞を発する間や、声の力の抜き方になる。
笑わせるために急に大声を出すだけが、
軽い場面への移り方ではない。
真面目な話をした人が、
いつもの少しずれた返事をするだけでも、
その人の日常が戻ってきたように感じられる。
ただ、軽い会話を挟めば
何でも自然につながるというものでもない。
直前の苦しさがまったく残らなければ、
さっきの話はどこへ行ったのかと戸惑う。
反対に、いつまでも声を沈ませ続ければ、
漫画では可笑しかったやり取りが重く聞こえる。
その間の調子を探ることになる。
レインが格好よくなりすぎないようにする演技も、
ここへつながる。
彼が毎回すべてを見通したように語れば、
周囲の傷まできれいに解説する人へ近づいてしまう。
頼もしさがありながら、
どこか抜けた返しもあることで、
仲間との会話が一方向に固まらない。
リリィやマーガレットも、
重い過去を持つからといって、
ずっと厳粛な言葉だけを話す人物にはならない。
今そばにいる相手へ呆れたり、
普段の癖を出したりする。
そうした時間があることで、
過去の出来事だけでは語りきれない人として画面の中にいる。
この調子を、漫画とアニメで同じように感じる人もいれば、
声が付いたことで落差を強く感じる人もいる。
文字なら軽く読めた一言が、
具体的な声になると痛く聞こえる場合もある。
逆に、表情の動きによって、
文字だけでは見えなかった可笑しさが伝わることもある。
感動へ寄せすぎず、 漫画の変な後味も残す方針
そのため、違って感じた部分を、
すべて追加や削除の一覧だけで説明するのは難しい。
台詞を変えずに印象が変わることも、
短くしたことで流れがつながることもある。
アニメの時間の中では、
何を残したかに加え、
何秒そこに留まったかも働いている。
背景の描き込みも、
重さと軽さの間へ関わる。
世界をあまりに重厚な絵で固めれば、
力の抜けた顔が別の作品から来たように
感じられることもある。
逆に、周囲まで軽く見えすぎれば、
危険な出来事の手応えが薄くなり得る。
人物と空間は別々には決まらない。
声、背景、台詞の長さは、
それぞれ独立した飾りではない。
背景がある場所で人物が話し、
その言葉へ別の人物が返すことで、一つの場面になる。
どこかだけを変えると、
ほかの部分の聞こえ方や見え方まで動く。
その組み合わせに、映像化の調整がある。
だから、アニメが漫画を尊重しているかどうかを、
全部の台詞が残ったかだけでは決められない。
同じ量を入れても流れが変われば別の感触になり、
少し減らしても人物らしさが残る場合がある。
『チー付与』では、
漫画の癖を消さないことも制作の課題として語られている。
また、漫画の持ち味を残す方針だからといって、
すべての視聴者が同じ出来に感じるという保証でもない。
漫画で好きになった間が違うと感じたり、
声のほうが好みに合ったりする。
作り手の狙いを知っても、
実際に見てどう感じたかまで一つにそろうわけではない。
現時点で確かめられるのは、
漫画を土台にして、台詞を一部短くし、
背景や動き、演技を加えるアニメ化になる。
小説と漫画の大きな違いを、
そのままアニメと漫画の大幅な筋書き変更として
扱うことはできない。
作品の関係と、映像での見せ方が、それぞれ別にある。
漫画では一つのコマに同時に見えていた顔も、
アニメでは順番に映ることがある。
先に誰の反応を見るかによって、
笑う気分で待つのか、
つらい言葉を受け止めるのかが変わる。
出来事の順番を大きく変えなくても、
視線の順番には違いが生まれる。
その違いを感じる時、
好きな場面が別の形になった寂しさと、
新しい面白さは一緒に起こり得る。
全部同じであってほしい気持ちと、
声や動きを楽しむ気持ちは、
必ずどちらかだけを選ぶものでもない。
アニメと漫画は、同じ人物と出来事を共有しながら、
同じ時間の流れ方では触れられない。
漫画では読み返して笑った顔が動き、
思い描いた声とは違う返事が聞こえる。
その変化の中にも、
相変わらず少し変な人たちがいる。
そこが、このアニメ化で残そうとしている
漫画とのつながりになる。


コメント