『PSYREN』の禁人種タヴーは、荒廃した世界でアゲハたちを襲う怪物として現れる。
原作では人間を材料に生み出された存在と明かされ、その正体が飛龍の友人タツオにもつながっていく。
怪物になる仕組みと人の心が残る可能性を、襲われる側と変えられた側の両方からたどる。
この先は原作3巻までのネタバレあり。
第1章 禁人種タヴーの正体は、 人間を変えた生命体
禁人種タヴーの正体
人間に核イルミナを移植し、
作り変えた存在。
タツオの例では、外の攻撃と
本人の意思が一致していない。
怪物の姿になる前には、人間がいた
サイレン世界で人を襲う禁人種タヴーは、
もともとそこに暮らしていた野生の怪物ではない。
原作では、人間の生命を材料にして
生み出された存在と明かされる。
巨大な体や異形の手足だけを見れば、
人とはまるで別の生き物に映る。
それでも、その体には人間から
作り変えられた過去がある。
「あの怪物も元は人間なのか」という疑問には、
まずここが答えになる。
ただし、「元人間」という言葉から、
知っている誰かの顔がすべての個体に
隠れているとまでは言えない。
作中で元の身元を確かめられる人物と、
過去の名前や暮らしが描かれない怪物は分かれる。
アゲハたちの前に現れた一体一体について、
どこの誰が変えられたのかを
想像で埋めることはできない。
人間から生み出されるという成り立ちと、
個人の身元は別の話になる。
この設定が具体的な人物につながるのが、
飛龍の捜しているタツオの存在になる。
行方不明の友人を見つければ、
いっしょに帰れるかもしれない。
そんな望みの先に、仲間を攻撃する相手としての
再会が待っている。
名前を知らない怪物を避けていた時とは、
向き合う苦しさが違う。
逃げなければ殺される相手が、
助けに来た相手でもあるところに、
この話のつらさがある。
アニメ第2話でアゲハたちの前にあるのは、
まず怪物から生き延びなければならない状況になる。
同じ場所には、金を求めて来た人々と、
友人を捜す飛龍がいる。
目的は違っても、外へ出れば等しく危険にさらされる。
そこで誰かを助けようとするアゲハの行動と、
後にタツオを助けようとする行動には、
目の前の人間を置き去りにできないところが重なる。
人間の姿と、人間の意思は一致しない
タヴーを見分けるうえで、
姿だけを頼りにすると戸惑うことがある。
虫のような巨体を持つものもいれば、
人間の輪郭を大きく残すものもいる。
タツオは後者に当たり、
顔や体つきに人の面影を残している。
それなのに、飛龍が知っている相手として
話が通じる状態にはない。
人間に近い姿をしているから、
本人の判断で戦っているとは限らない。
同じ人型でも、敵意を見せる姿と、
心の中で怯える姿を並べると印象が変わる。
タツオには、攻撃する体と、
その体を動かせない本人が同時に存在している。
敵の正体を暴けば本音が分かるという場面とは
少し違う。
正体が分かった後でさえ、
目の前の表情や言葉のどこまでを
本人のものとして受け止められるか、
迷いが残る。
原作でタツオの胸に埋め込まれているのが、
禁人種の核になるイルミナ。
その存在は、単に強い力を与える装備として
片付けられない。
雨宮が精神に触れると、
そこには自由に動けないタツオの内面と、
改造を受けた記憶が残っている。
外では銃を向けていても、
内側の本人がそれを望んでいるとは言えない。
攻撃という行動と、本人の願いが離されている。
ここは少し引っ掛かる。
タヴーの正体を知ったからといって、
目の前の攻撃が弱まるわけではない。
アゲハたちは身を守る必要があり、
飛龍も傷つけられる。
相手にも被害を受けた過去があることと、
今その相手から命を守ることは、
同時に起きてしまう。
タツオの話は、怪物への同情だけで
戦いが終わるような形にはなっていない。
そのため、記事の中心は
「実は人間でした」という驚きだけには置けない。
誰が人間を変えたのか。
本人の心は消えてしまったのか。
攻撃を止めた後、帰ることはできるのか。
タツオの姿が現れることで、
正体の疑問は救出の難しさへ続いていく。
怪物として倒す対象と、
名前を呼んで取り戻そうとする相手が、
一人の中に重なっている。
また、アゲハたち自身が超能力に目覚めることと、
タヴーへの改造も同じではない。
サイレン世界で力を得る人間が、
そのまま全員タヴーになるわけではない。
超能力を扱えるかどうかだけでは、
両者を分けられない。
タツオの記憶に出てくる核の移植と、
外から意思へ干渉される状態までつながると、
人間のアゲハたちとの違いが見えてくる。
第2章 アゲハたちを襲った怪物は、 何が恐ろしかったのか
廃墟の外には、 ゲームという言葉で済まない危険がある
廃墟に人が集まっていても、
それだけでは安心できない。
アゲハが出会う人々は、
それぞれ事情を抱えてサイレンへ来ている。
多額の懸賞金を目当てにする人もいて、
頭の中へ届く声はゲートを探すよう促してくる。
出口に向かえば何かを得られるのかもしれない。
そんな期待を抱いたまま外へ進む人々の前に、
怪物が現れる。
アゲハは外の危険を伝えようとする。
それでも制止は届かず、
後を追って助けようとしても、
人々は襲われてしまう。
ここで苦しいのは、危険を知っている人が一人いても、
それを周囲と共有する時間が足りないことになる。
アゲハが冷静に説明し終えるのを、
怪物は待ってくれない。
声を掛けることと、実際に命を守れることの間に、
埋まらない距離がある。
懸賞金を求めて来た人々の判断は危うく見える。
ただ、結末を知った位置から
「忠告を聞けばよかった」と言うだけでは、
あの場面の不気味さが薄くなる。
彼らは自分がどこへ連れてこられたのか、
怪物がどれほど危険なのかを
十分につかめていない。
人間の常識で進もうとした先に、
その常識が通じない相手がいる。
そこに初めて入った者の怖さがある。
しかも、アゲハが守りたい雨宮は
疲労で意識を失っている。
危険を知らせる役、動けない人を守る役、
外へ出た人を助ける役を、
落ち着いて分担できる状況ではない。
人が多いことが、
そのまま戦力の多さにつながらない。
むしろ誰がどこへ向かったか分からなくなることで、
助ける側の動きまで難しくなる。
タヴーの強さは、この混乱の中で突きつけられる。
ゲームという言葉には、
やり直しや決まった手順を連想させるところがある。
しかし、サイレン世界で受けた傷は、
その場の体へ残る。
ルールを知らなくても襲われ、
勝ち方を理解する前に命を失う人も出る。
アゲハたちにとって最初の課題は、
怪物の分類を覚えることより、
生きてその場を抜けることになる。
正体の謎を考える余裕さえ、
まず生き延びた先にしかない。
姿を覚えても、 次の相手へそのまま通じない
タヴーには見た目や攻撃の違いがある。
原作の次のゲームでは、
巨大な蟲と銃を使う人型の相手が一行を襲う。
大きな怪物から逃げられれば安全、
という単純な配置にはならない。
距離を取った先にも射撃の危険があり、
一方へ注意を向けると
別の相手へ隙を見せてしまう。
遭遇した一体への対処を覚えるだけでは、
次の戦いを乗り切れない。
銃を使う相手がいることも、
怪物への印象を変える。
牙や爪から逃げる場面だけなら、
獣に追われる恐怖として理解しやすい。
ところが、人間に近い相手が武器を扱い、
力を込めた攻撃を放つと、
体格だけで危険を測れなくなる。
遠くにいるから安全とも言えず、
話せそうな姿だから交渉できるとも言えない。
目の前の外見から判断できることが少ない。
この違いは、タヴーがひとつの動物の種類では
ないことともつながる。
すべて同じ形で生まれ、
同じ習性で行動する群れとして考えると、
人型や巨大な蟲の隔たりが大きすぎる。
人間から作り変えられた存在という背景を知ると、
そのばらつきにも別の問いが生まれる。
ただし、個々の形がどの工程で決まるかまで、
描かれた範囲を越えて説明することはできない。
序盤のアゲハたちが見ているのは、
敵の全体像ではなく、
その時に遭遇した危険の一部にすぎない。
だから、最初の怪物を倒したことで
サイレン世界の安全が保証されることもない。
次に現れる相手が人型なら、
人の姿を残すタヴーもいると知る。
さらに、その相手の名前が分かると、
怪物の正体が失踪した人間へ近づいていく。
恐怖の種類が段階的に変わっていく。
タヴーの怖さには、攻撃力の高さと、
相手について何も知らないことが重なっている。
どこまで追ってくるのか、何を見て襲うのか、
倒す以外に止められるのか。
分からないまま判断を迫られるため、
アゲハたちの選択にはいつも危険が残る。
後に元人間と明かされることは、
その最初の恐怖を取り消さない。
生き延びた後で、
戦った相手の過去まで気になってしまう。
第3章 人間はどうやって タヴーに変えられる?
タツオの記憶に残る、 核を埋め込まれた場面
人間がタヴーになる過程を、
タツオの記憶は具体的に示している。
雨宮が彼の精神へ入り込むと、
そこには連れ去られた時の記憶が現れる。
タツオは自分で改造を申し込んだ人物として
描かれていない。
怪物に捕まり、サイレン塔へ運ばれ、
体へ核を埋め込まれる。
人間でなくなる変化が、
本人の同意を置き去りにして進められている。
核はイルミナと呼ばれ、
人間の体へ移植されることでタヴーを生み出す。
その処置はイルミナス・フォージと呼ばれる。
ただ、名称を知ることより、
タツオが逃げられない状態で
施されている点が重い。
強い力を手に入れるための修行や、
自分の意志で選ぶ変身とは入り口が違う。
彼は生きた人間としてそこへ運ばれ、
別の存在へ変えられてしまう。
雨宮が見るのは、
タツオが後から説明した話ではなく、
精神へ触れた先に残っている記憶になる。
外にいるタツオは仲間へ攻撃を向けているのに、
内側には改造を恐れ、抵抗できない姿がある。
この食い違いによって、目の前の敵意を
そのまま本人の本心とは受け取れなくなる。
外の行動を見ているだけでは
届かなかった事情へ、
雨宮の能力がつながっている。
一方で、この場面からすべてのタヴーの
改造手順が同一とまでは断定できない。
タツオの場合には、
捕獲から核の移植までが見える。
姿が大きく変わった別の個体について、
誰がどの順番で処置したのかは
個別に描かれていない。
確認できる一人の経過は、
成り立ちを知る具体例になる。
その具体例を、
全員の過去へ細部まで当てはめないことも
必要になる。
移植の場面では、雨宮が見ている先で
タツオが苦しみ、彼女も衝撃を受ける。
相手の記憶へ入れる能力は、
知りたい情報だけを都合よく抜き取るようには
描かれていない。
雨宮はタツオを調べるうちに、
彼が味わった恐怖へ触れてしまう。
外で戦っている相手をどう止めるかという判断に、
その苦しみを知ったことが加わっていく。
超能力が使えるだけで、 タヴーになるわけではない
アゲハたちもサイレン世界へ来た後、
PSIという超能力を扱うようになる。
離れた対象へ力を及ぼす、身体を強化する、
精神へ働き掛けるといった力があり、
雨宮がタツオの心へ入るのもその一つになる。
ところが、アゲハたちの覚醒を、
そのままタヴー化と呼ぶことはできない。
超能力を使う人間と、
改造されたタヴーは同じ集団ではない。
両者の違いが分かりにくくなるのは、
人間もタヴーもPSIに関わる攻撃を使うためになる。
タツオは銃へ力を込めて戦い、
アゲハも自分の力を戦闘へ使う。
攻撃の見た目だけを比べると、
強い超能力者同士の戦いに映ることもある。
しかしタツオには、体内へ埋め込まれた核と、
自由な意思を妨げる状態がある。
力の強さだけでは、改造された過去は見えてこない。
タヴーの核は、外から外せる飾りや、
取り替えれば済む防具とは違う。
タツオの体にはすでに一体化した核が残り、
抜き取ると生命へ危険が及ぶ状態になっている。
胸に見える異物が問題の中心なら、
それを取り除けば元通りと思いたくなる。
けれど、改造はそんなふうに簡単には戻せない。
体の働きまで変えられたことが、
救出の後にも残る問題になる。
ここに、超能力の訓練とは異なる残酷さがある。
アゲハは力の扱い方を覚えようとし、
制御できない危険に向き合う。
タツオの場合は、それ以前に、
自分の体へ何を入れるかを選べていない。
さらに、人を襲う行動にも本人の自由がない。
強い力を得たという結果だけ並べると、
この差が抜け落ちてしまう。
彼の変化には、
失われた選択が何重にも重なっている。
また、人間の体を使うという設定は、
怪物が自然に増えているという理解も変える。
タヴーが生まれるところには、
改造を施す側と、材料にされる側がいる。
タツオを運ぶ者、処置をする者、
使い方を指示する者が描かれることで、
一体の怪物の後ろに複数の行動がつながる。
怪物がそこにいるという結果だけでなく、
人間をその姿へ追い込む仕組みまで存在している。
だから、タツオの改造を知る場面は、
世界設定の用語を覚えるためだけの場面ではない。
飛龍が捜していた時間の間に、
タツオの身に何が起きていたのかが
初めて具体的になる。
帰ってこない友人を待つ側と、
帰れない体へ変えられる側が、
別々の場所で同じ時間を過ごしていた。
その隔たりを知ると、
再会できたことだけでは安心できない事情が
伝わってくる。
第4章 タツオの姿が突きつける 「元人間」という現実
ここからは原作の先の展開に触れる。
飛龍が捜していた相手が、 目の前の敵になる
飛龍がサイレンへ来た目的には、
行方不明のタツオを捜すことがある。
怪物の存在を知ってから、
偶然その身元へ関心を持ったのではない。
最初から、帰ってこない一人の人間を追っている。
だからタツオとの再会は、
敵の正体が判明する出来事に留まらず、
捜していた相手へようやく手が届く出来事でもある。
その手が届く距離から、攻撃を受けてしまう。
原作で振り返られるタツオは、
病弱な体を抱え、
飛龍に励まされてきた後輩になる。
飛龍にとっては顔を知っているだけの相手ではなく、
以前から関わりのある人間になる。
タツオの側にも、飛龍への憧れがある。
過去の二人には、
強い側が弱い側を攻撃する関係ではなく、
体の弱い相手を気に掛けるつながりがあった。
その関係が、再会の場面ではひっくり返っている。
人型の相手が銃を使い、
飛龍たちの進路をふさぐ。
外から見れば、
避けるか倒す必要のある敵になる。
それでも飛龍は、
相手をただの怪物として処理できない。
友人の姿が残っているため、
別人と思い込むこともできない。
知っている顔と、知らない行動がひとつの体にある。
そのずれが、飛龍の戸惑いを生む。
ここでタツオが飛龍を襲うことを、
昔の関係への恨みと結び付ける根拠はない。
雨宮が触れた精神には、
核を埋め込まれ、
自由を奪われた経過が残っている。
攻撃してくるからといって、
実は飛龍を憎んでいたという話にはならない。
むしろ以前の関係を知るほど、
その攻撃が本人の願いから離れていることが
痛く感じられる。
親しかった記憶と、現在の行動がぶつかっている。
飛龍が自分の目を見るよう呼び掛ける場面では、
タツオの口からヒリューの名が漏れる。
ほんのわずかに相手へ届いたように見えるところで、
攻撃は続き、飛龍は大きく傷つく。
届く気配があるから安心できるのではなく、
届いた気配があるのに止まらない。
その落差が苦しい。
友人を認める反応と、銃を向ける動きが、
一度に見えてしまう。
飛龍が相手へ近づこうとするほど、
周囲の仲間にも危険が及ぶ。
助けたい気持ちだけで距離を詰めれば、
銃を向けられる。
反対に、安全だけを考えて相手を倒せば、
捜してきたタツオを失うかもしれない。
飛龍には、どちらへ動いても
失いたくないものがある。
そこで必要になるのが、
攻撃を受ける覚悟だけではなく、
仲間と役割を分ける救出の動きになる。
名前が分かった瞬間から、 戦いの目的が変わる
タツオの正体が分かる前なら、
問題はゲートへ進む道をどう確保するかになる。
分かった後は、
タツオを生かして止められるかという条件が加わる。
戦う相手の能力は変わっていないのに、
アゲハたちが目指す結果は難しくなる。
通り抜けられれば成功、
という一つの答えでは済まない。
飛龍が連れて帰りたい人間を、
仲間も無視できなくなる。
この場面で、アゲハが飛龍の事情と無関係な
傍観者に留まらないところも大きい。
自身も雨宮を捜してサイレンへ来ているため、
行方不明の相手を追う立場とは無縁ではない。
ただし、そこからアゲハの内心を
細かく決めつけることはできない。
確かに見えるのは、
タツオを止めるために力を使い、
飛龍や雨宮とともに危険を引き受ける行動になる。
雨宮にも、敵の精神を調べるだけでは
終われない事情ができる。
彼女は内側で苦しむタツオと、
改造された記憶を見てしまう。
相手の心へ届く能力は、
隠れた弱点を探す力にもなり得る一方、
相手に起きたことを知る力にもなる。
そこで見えたものが、外の戦い方を変える。
タツオを止めるには、
体の攻撃と精神への干渉をつなぐ必要が生じる。
タツオという名前が付くことで、
元人間という設定が急に近くなる。
それまでの怪物にも、
人間としての過去はあったかもしれない。
しかし、飛龍の記憶やタツオの言葉へ触れると、
失われた暮らしを具体的に考えられるようになる。
これは、名前のない怪物の過去を
自由に作ってよいという話ではない。
実際に描かれた一人の過去が、
怪物という呼び方の外にあるものを見せている。
そして、親しい人だけが救う価値を持つという
結論にもつながらない。
飛龍はタツオを知っているため、
相手の変化に気づき、助けようと動ける。
ほかの個体では、
その身元へ届く手掛かりがないこともある。
タツオの救出は、
改造された人間を取り戻す道があり得ることを
示す一例になる。
同時に、名前も過去も分からない相手を
救う難しさまで残している。
第5章 タヴーになった後も、 人の心は残る?
外からの攻撃と、 内側のタツオが食い違う
タヴーになったら心まで完全に消えるのか。
この疑問に対して、
タツオの内面には本人へつながるものが残っている。
雨宮が精神へ接続すると、
外で銃を使う姿とは異なる状態に出会う。
自由に動き回れる心ではなく、
疲れ果て、拘束されているような内側の姿になる。
肉体が活動していることと、
本人が自分の意思で動けることは一致していない。
精神の中に記憶が残っている点も大切になる。
雨宮は、タツオが連れ去られ、
改造された経過へ触れる。
それは、タヴーへ変えられる前後の出来事が、
何もかも消し去られた状態とは異なる。
本人が説明できなくても、
本人へ起きたことは内側に残っている。
外から会話が成立しないことだけで、
元の人格がどこにもないとは言い切れなくなる。
ただ、記憶が残ることと、
自由に話せることの間には大きな隔たりがある。
タツオは飛龍を見ればいつでも
攻撃をやめられる状態にはない。
名前を呼ばれたから、
友人を思い出したからという一つのきっかけで、
改造の影響がすべてなくなるわけではない。
飛龍の声が届いてほしいと思うほど、
声だけでは止まらない攻撃がつらい。
心へ触れる手段があっても、簡単には終われない。
雨宮が精神へ入る行動にも危険がある。
外の戦闘が続く中で、
相手の内側へ働き掛けなければならない。
核の影響が残っている状態では、
接続できたことを
そのまま救出の成功にはできない。
タツオの心へ届くところまで進んでも、
体を支配する仕組みが残れば問題は続く。
精神への接触と、核への対処を
別々の仕事としてつなぐ必要がある。
呼び掛けだけで救えないから、 仲間の力が必要になる
タツオの救出では、
飛龍が相手へ近づく役を引き受け、
雨宮が精神に働き掛け、
アゲハが核へ作用する力を使う。
誰か一人の強さだけで片付く配置ではない。
タツオへ近づくための動き、
本人の内側へ届く能力、
体に埋め込まれた核の機能へ干渉する攻撃が
必要になる。
友人を助けたいという願いが、
具体的な役割へ分かれていく。
飛龍が傷ついた後、アゲハは
胸の核の光が弱くなったことに気づく。
それをタツオ本人が抗っている可能性と
結び付けるものの、
その時点ではアゲハの推測になる。
まだ核が止まったわけでも、
自由に動けるようになったわけでもない。
小さな変化を救出の手掛かりにしながら、
残る攻撃へ対処しなければならない局面が続く。
アゲハの暴王の月は、
PSIへ反応し、
周囲の物を巻き込む危険な力になる。
タツオの核へ作用させるには、
その性質が救出へ使える一方、
仲間まで危険にさらすおそれがある。
ここでの攻撃は、体を傷つけず
安全に治療できる便利な道具ではない。
力を放つアゲハ自身にも負担がかかり、
雨宮はそれを目の当たりにする。
使えば終わるような安心感はない。
原作のこの局面では、
核の機能を止めることで、
タツオの精神を押さえていた状態へ対処していく。
大事なのは、核を胸から
きれいに取り出しているわけではない点になる。
外に見える異物をなくす処置と、
その働きを止める処置は異なる。
後にタツオの胸へ核が残っていることも、
この違いにつながる。
意識が戻ったことだけで、
改造そのものが解消したとは言えない。
雨宮が内面の状態を知り、
アゲハが核へ干渉する。
この組み合わせによって、
精神の問題を気持ちの強さだけに預けず、
体の問題を攻撃力だけにも預けない救出が進む。
飛龍の思いは、
仲間が動くきっかけとして確かに重い。
ただ、思いが強ければ誰にでも
同じことができるという話ではない。
それぞれの能力と、その場の危険を
引き受ける動きがつながっている。
また、タツオの心が残っていたことは、
すべてのタヴーの内側が
同じ状態という保証にはならない。
個体によって姿や能力が異なるうえ、
改造を受けた後の経過も一様とは限らない。
タツオの例から分かるのは、
元の人格へ届き直せる場合があることになる。
どの怪物にも同じ手順が通じ、
同じ結果が得られると広げると、
描写より先へ進みすぎてしまう。
ここで少し救われるのは、
タツオ本人が完全にいなくなった扱いには
ならないことになる。
外の攻撃だけを見ていれば、
以前の彼はもう戻らないと感じても不思議ではない。
その内側へ雨宮が触れることで、
まだ届く相手がいると分かる。
ただ、届くことと、連れ出せることは
別々の難しさを持つ。
希望が見える場面でも、
その先の作業は仲間へ重く残っている。
第6章 誰がタヴーを生み出した? W.I.S.Eとのつながり
ここからは原作の先の展開に触れる。
タツオの改造には、 運ぶ者と命じる者がいる
タヴーを生み出す側には、
サイレン世界を支配する組織W.I.S.Eがいる。
読みはワイズ。
核を移植する技術を使い、
人間を異形の存在へ変えている。
荒廃した場所に怪物が自然発生し、
ただ本能で歩き回っているという理解とは違う。
タツオの記憶には、捕らえられた彼を運ぶ者、
処置を施す者、
改造後の使い方を指示する者が順に現れる。
タツオが語る経過では、
処置の場にいる怪物たちのほかに、
人間の姿を保った男が現れる。
その男は、
タツオを改造した者たちへ怒りを向ける。
ここで、改造が行われたから
全員が同じように喜ぶという関係ではないことも見える。
現場で処置する者と、
それを評価し命令を下す者の立場が分かれている。
タヴーの周囲には、力を持つ側からの指示がある。
その男はドルキ。
タツオの意思を尊重して解放する人物としては
描かれない。
侵入者を排除するため、
タツオを働かせる側へ回る。
もとの暮らしへ戻れるか、
何をされたか分からず怯える本人の事情は、
そこで顧みられない。
人の姿が残っていても、
道具として使えるかという判断が先に来る。
タツオの体は、捕まった後も
自分のものとして扱われていない。
ドルキの指示は、
タツオを改造した者たちへも容赦なく向けられる。
人間を勝手に作り変えたことへの怒りが、
その被害者を守る方向へは進まない。
処置をした側を罰しながら、
残されたタツオは戦いへ使う。
その扱いからは、彼の安全よりも、
自分の指示に沿って動くかどうかが
重く見られていると読める。
タツオには、保護へつながる隙がない。
この経過があるため、
タツオが人々を襲うことを、
本人の性格が突然残酷になった話にはできない。
改造後の彼には、核から精神へ及ぶ影響と、
侵入者を排除するよう求める命令が重なる。
攻撃の背後へつながる出来事が、
記憶の中に描かれている。
タヴーを止める問題と、
タヴーを使う側の問題が分かれるのは、
ここで誰が何をしているかが見えるためになる。
人型のタヴーが会話したり、
作業を行ったりすることも、
すべての個体を知能のない獣として
扱えないことを示す。
タツオの記憶に出てくる者たちは、
捕獲や移植に関わって動いている。
ただし、そこから個々の元の身元や、
全員の自由な意思まで逆算はできない。
働いている姿があることと、
改造前からその仕事を望んでいたことは、
同じではない。
タヴーを倒しても、 作る側の仕組みは残る
アゲハたちが一体のタヴーを止めれば、
その場で受ける攻撃は減る。
しかし、人間を捕らえ、核を埋め込み、
別の者へ攻撃させる仕組みまで
消えるわけではない。
タツオの救出に成功しても、
彼を改造した側の問題は残る。
怪物の体へ対処することと、
次の人間が同じ目に遭わないようにすることは、
違う段階の課題になる。
タツオの記憶に塔が現れることも、
怪物が歩いている風景とは別の怖さにつながる。
外を徘徊する怪物から逃げても、
捕まった人間が運ばれる場所がある。
そこで本人の意思に関係なく処置され、
再び外へ送り出される。
怪物に襲われて命を失う危険だけでなく、
生きたまま別の存在へ変えられる危険まである。
生き残ったかどうかだけでは、
その人の安全を測れなくなる。
この仕組みの中では、
タツオが以前どんな人間であったかは、
使う側の関心から外されている。
病弱な後輩として飛龍に励まされてきたことも、
帰りを待つ人がいることも、
命令を出す場面では扱われない。
飛龍たちが取り戻そうとしているのは、
その切り離された一人の存在になる。
人間としての過去が消えたから敵になったのではなく、
過去を無視されて敵として使われている。
W.I.S.Eの存在が見えてくると、
アゲハたちの前にいる怪物と、
怪物を動かす側の隔たりもはっきりする。
タツオを攻撃して止めるだけでは、
彼をこんな姿へ変えた相手には届かない。
彼が友人へ銃を向けている間、
命令を出した側は同じ危険を引き受けていない。
傷つくのは襲われる人間であり、
止めるために戦わされるタツオ自身でもある。
この配置には、逃げ場のなさを感じる。
サイレンへ人を導くネメシスQと、
タヴーを作って使うW.I.S.Eも、
同じ働きをする存在として一括りにはできない。
アゲハたちはゲームへ巻き込まれ、
怪物に襲われるため、
最初はすべてが一つの罠に見えやすい。
それでも、人をその世界へ呼ぶ出来事と、
来た人間を捕らえて改造する出来事には、
それぞれ別の主体が関わる。
目の前の脅威を作った側へ届くには、
この違いが関わってくる。
第7章 タヴーになった人を、 取り戻すことはできる?
タツオの救出で戻ったもの
意識と会話:取り戻せる。
胸の核:残っている。
現代への帰還:その場ではかなわない。
タツオは心を取り戻すが、 胸の核は残る
タツオの例では、
本人の意識を取り戻すところまで進める。
仲間を攻撃する状態を止め、
飛龍やアゲハたちへ言葉を返す相手として
再び向き合えるようになる。
内側へ届いても救えないまま終わる話ではない。
あれほど危険な敵として立っていた人物が、
何をされたのかを自分の言葉で話せる。
この変化には、救出が届いた手応えがある。
ただし、心を取り戻したことと、
元の体へ戻ったことは同じではない。
原作3巻の段階で、
タツオの胸には核が残っている。
しかも体と一体化しており、
無理に抜き取ると命を失う危険がある。
攻撃を止めたからそのまま病院へ連れていけば済む、
という状態ではない。
本人の意識が戻った後にも、
どう生きていくかという問題が続いている。
同じ戦いの後には、
朧が治癒の力CUREを使い、
傷ついた仲間を助ける展開もある。
ここでも、傷を治す力が現れたことと、
タツオの核を安全に外せることは直結しない。
けがへの処置ができる仲間がいるからこそ、
核の問題が単なる外傷とは違うと感じられる。
助ける力は増えても、
何をどこまで戻せるかは
別に確かめなければならない。
ここは、救出の場面を思い返すとつらい。
核こそがタツオを縛っていたものなら、
なくなってほしいと思う。
ところが、その核が
今の生命にも関わってしまっている。
悪いものを取り除けばすべてよくなるという
形に収まらない。
本人を傷つけた仕組みと、
本人が生きるための条件が、
すでに体の中で結び付いている。
さらに、現代へ帰る問題も残る。
タツオはカードを失っており、
アゲハたちと同じようには帰還できない。
友人に会えたこと、意思を取り戻したこと、
現代へ戻れることが、
一度に達成されるわけではない。
飛龍が捜していた相手は確かに生きている。
それでも、いっしょに帰るという最初の願いは、
その場でかなえられない。
この段階のタツオを
「完全に元へ戻った」と紹介すると、
胸の核も帰還の問題も抜けてしまう。
反対に「もう人間の心は戻らない」と言うのも、
彼が会話を取り戻す経過と合わない。
救えたものと、まだ救えていないものがある。
本人の意思へ届いたことは確かな前進として残り、
体の治療と帰還は次の課題として続く。
一人を救えたことが、 すべての怪物への答えにはならない
タツオの経過から、
元人間のタヴーにも救出の可能性があると分かる。
ただし、その可能性を全個体へ
同じ形で広げることはできない。
人間に近い姿を残し、
以前の関係を知る飛龍がいて、
精神へ触れる雨宮と
核へ干渉できるアゲハがいる。
タツオを取り戻す場面には、
いくつもの条件が重なっている。
たとえば、人の面影をほとんど残さない怪物に対し、
名前を呼んで本人へ届く手掛かりがあるとは限らない。
誰が変えられたのかさえ分からなければ、
過去の記憶と結び付く相手も探しにくい。
これは、その個体に心がないと断定する話ではない。
分からないことが多いほど、
タツオの時と同じ道をたどれるとは言えなくなる。
また、アゲハの攻撃を当てれば
安全に全員を救える、という説明もできない。
暴王の月は周囲を巻き込む危険を持ち、
使う側への負担も大きい。
核へ作用した実例があっても、
治療専用の力として自在に扱えるわけではない。
仲間を助けた力が、
使い方や状況によっては仲間を傷つけかねない。
救出の成功には、
危険がなかったことまでは含まれない。
原作3巻でタツオが自分に起きたことを話し始めると、
戦いの最中には分からなかった事情が、
本人の言葉からつながっていく。
彼を取り戻す過程には、
内面を知る雨宮の力も必要になった。
それでも最後に自分の経験を伝えるのは、
意識を取り戻したタツオ本人になる。
誰かに調べられるだけの相手から、
話を聞ける相手へ戻ったことにも、
救出の手応えがある。
タヴーの正体が元人間と分かると、
最初の襲撃場面にも戻りたくなる。
あの場でアゲハが助けようとした人々は、
怪物から逃げる側にいる。
その一方で、原作のタツオは、
同じようにサイレンへ来た後、
襲う側へ変えられてしまった。
安全な側と危険な側が、
生まれつき固定されているわけではない。
人が怪物に襲われるだけでなく、
人を怪物にしてしまう世界がそこにある。
飛龍が再び話せるタツオへ向き合う場面では、
強敵を倒しただけの決着とは違うものが残る。
捜していた相手は目の前にいる。
けれど、胸の核を取り除く道も、
いっしょに帰る道もまだ見つかっていない。
タツオという名前を取り戻せても、
奪われた暮らしまで一度には戻らない。
それでも、本人が自分に起きたことを
話せるところから、救出の続きが始まっている。


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