クジマの歌は、ただの変な行動ではなく、
「言葉ではうまく入れない場所に、音で入り込むクジマらしさ」
第1章 結論|クジマの歌は、自分の居場所を作るための声になっている
歌うたびに、クジマは鴻田家へ少しずつ入り込んでいく
『クジマ歌えば家ほろろ』を見ていると、クジマは本当によく歌う。
しゃべるだけでも十分目立つ存在なのに、なぜかわざわざ歌う。
最初は変な生き物の変な癖に見える。
でも話を追うほど、その歌がただのギャグではないように見えてくる。
クジマは最初から鴻田家の一員だったわけではない。
新が学校帰りに出会い、そのまま家へ連れてきた存在。
家族でもない。
親戚でもない。
どこの誰なのかもよくわからない。
それなのに、気付けば食卓にいる。
テレビを見ている。
家の中を歩いている。
そして歌っている。
うおお、この流れがかなり不思議。
普通なら、見知らぬ生き物が家に来ても距離ができる。
警戒される。
様子を見る。
空気がぎこちなくなる。
でもクジマは、歌うことでその距離を少しずつ埋めていく。
新が学校から帰る。
母が家事をしている。
父が家でくつろいでいる。
兄の英は部屋へ閉じこもっている。
そんな日常の中へ、突然クジマの歌が入り込む。
誰も会話していない場面でも、歌が聞こえるだけでクジマの存在が伝わる。
静かだった家の中に音が増える。
その音が少しずつ家族の生活へ混ざっていく。
だからクジマは、言葉より先に歌で居場所を作っているように見える。
作品タイトルに「歌えば」が入っているのも象徴的。
もしクジマが歌わなかったら、ここまで印象に残る存在にはならなかったかもしれない。
不思議な生き物がいる物語では終わる。
でも歌う。
だからクジマになる。
これがこの記事の結論。
クジマの歌は単なる賑やかしではない。
鴻田家という場所へ、自分がいてもいいのか確かめるための声。
だから歌う場面ほど、クジマらしさが見えてくる。
歌は楽しさだけではなく、クジマの孤独も少し見せている
クジマは基本的に明るい。
食べる。
遊ぶ。
寝る。
勝手に行動する。
かなり自由。
だから見ている側も、ついギャグキャラとして受け取る。
でも少し立ち止まって見ると、違う景色も見えてくる。
クジマはロシアから来たと言う。
家族の話はほとんど出ない。
仲間も見当たらない。
どうやって日本へ来たのかもよくわからない。
冷静に考えると、かなり不思議で、かなり孤独な状況。
それなのにクジマは、その寂しさを大げさに語らない。
泣き言も少ない。
悲劇の主人公みたいな顔もしない。
だから逆に気になる。
歌っている時のほうが、本音が少し見える気がする。
家族の会話を聞いている時。
ひとりで過ごしている時。
何かを思い出したように歌う時。
その歌は明るい。
でも少しだけ胸に引っかかる。
キツ…。
楽しそうなのに、どこか遠くを見ている感じがある。
特に鴻田家へ来たばかりの頃は、まだ完全に馴染んでいるわけではない。
新とは話す。
家族とも接する。
でも本当にここへいていいのかは、まだ誰にもわからない。
そんな時期に歌が入ると、ただの面白シーンには見えなくなる。
歌っている。
楽しそう。
でもその裏では、自分の存在を確かめているようにも見える。
自分はここにいる。
今日も追い出されていない。
今日も食卓へ座っている。
そんな確認をしているようにも見える。
だからクジマの歌は不思議。
笑える。
可愛い。
変な生き物だと思う。
でも同時に少しだけ寂しい。
その二つが同じ場面に入っている。
だから印象に残る。
ただ歌っているだけなのに、なぜか忘れられない。
その感覚こそが、『クジマ歌えば家ほろろ』という作品の入口になっている。
第2章 出会いから見るクジマ|自動販売機の下にいた謎の生き物
新が出会ったのは、鳥でも人間でもない奇妙な存在だった
物語の始まりは、かなり変わっている。
新が学校帰りに歩いている。
特別な事件が起きるわけでもない。
勇者もいない。
怪物も暴れていない。
ただの日常。
その途中で、新は自動販売機の下をのぞき込む奇妙な生き物を見つける。
ここでまず笑ってしまう。
なにをしているのかと思ったら、小銭を探している。
うおお。
第一印象からして変。
しかも普通に話す。
日本語で話す。
鳥みたいな見た目なのに会話が成立する。
どういうこと?
そうなる。
新も驚く。
読者も驚く。
でもクジマ本人は意外と普通。
小銭を探す。
話す。
食べ物を欲しがる。
やっていることは生活感の塊。
だから余計に不思議。
現実と異常が同じ場所に置かれている。
その違和感が、一気に作品へ引き込んでくる。
そして新はクジマを放っておけなくなる。
この流れがかなり大きい。
もし最初から超能力を見せていたら違う作品になっていた。
もし世界を救う存在だったら違う物語になっていた。
でもクジマは違う。
最初にやっていることが、小銭探し。
だから距離が近い。
変なのに親近感がある。
その空気が、後の家族の物語へつながっていく。
歌が始まる前から、クジマは“音”で存在感を出していた
クジマは登場した瞬間から目立つ。
見た目だけでも十分変わっている。
でも本当に印象へ残るのは声。
しゃべる。
反応する。
独特の言い回しをする。
その時点でかなり存在感がある。
そして物語が進むと歌い始める。
ここでクジマというキャラクターが完成する。
見た目だけではない。
行動だけでもない。
声が加わる。
歌が加わる。
すると一気に忘れられなくなる。
新が学校へ行く。
家族が生活する。
英が部屋に閉じこもる。
母が心配する。
そんな現実的な家族の問題が続く中で、クジマだけが少し違うリズムを持っている。
歌う。
歩く。
食べる。
また歌う。
その繰り返しが家の空気へ混ざっていく。
だからクジマの歌を考える時は、歌だけを切り離して見てもわからない。
自動販売機の下で出会った瞬間から続いている流れがある。
見知らぬ生き物だった。
家へ来た。
一緒に暮らした。
少しずつ馴染んだ。
そして歌った。
この順番が大事。
歌は突然生まれた要素ではない。
クジマが鴻田家の中へ居場所を作っていく過程そのものだから。
だから歌うたびに、クジマという存在が少しだけ家族へ近付いて見える。
そしてその積み重ねが、『クジマ歌えば家ほろろ』という物語の温度になっている。
第3章 クジマの歌は笑えるのに、どこか寂しい
変な歌なのに、遠くから来た生き物の影が残る
クジマの歌は、まず笑える。
鳥のような見た目で、ひょろっと背が高くて、人間みたいに手足を動かして、急に歌う。
普通の家の中に、普通ではない声が混ざる。
食卓、廊下、居間、玄関。
どこにいても、クジマが声を出すだけで場面が一気にクジマ色になる。
でも、その笑いの奥に少しだけ寂しさがある。
クジマはロシアから来た謎の生き物。
冬を越すために遠くから日本へ来て、自動販売機の下で小銭を探していた。
その姿だけ見るとかなり変なのに、考えるほど胸に引っかかる。
遠くの国から来て、腹を空かせて、知らない町で小銭を探している。
キツ…。
最初の出会いが、もう少し切ない。
新が見つけたのは、堂々と現れた怪物ではない。
空腹で、日本食を食べたがって、自動販売機の下をのぞき込むクジマ。
強そうでもない。
偉そうでもない。
どこか必死で、どこか生活感がある。
この生活感が、クジマの歌にもつながる。
歌は大きな事件を起こすためのものではなく、今日を過ごすための声に見える。
腹が減る。
家へ来る。
食卓に座る。
家族の声を聞く。
その中で、クジマが歌う。
うおお、ここがじわじわ来る。
歌っているクジマは、楽しそうに見える。
でも同時に、遠くから来た生き物が知らない家で自分を保っているようにも見える。
日本語はかなり話せる。
箸も使う。
道具も器用に扱う。
それでもクジマは、どこまでいってもクジマで、人間にはなりきらない。
だから歌が残る。
言葉では近づける。
でも完全には同じになれない。
そのズレが、歌の変さになっている。
笑えるのに、少しだけ胸が静かになる。
この両方があるから、クジマの歌はただの奇声やギャグで終わらない。
明るい声の奥に、帰る場所への気配がある
クジマは、悲しそうな顔ばかりしているわけではない。
むしろ普段はかなり自由。
食べたいものを食べたがる。
思ったことを言う。
知らない家の中でも妙に堂々としている。
急にロシア語っぽくまくし立てるような勢いもある。
でも、そこが逆に刺さる。
本当に不安な存在ほど、ずっと不安そうな顔をしているとは限らない。
むしろ笑う。
騒ぐ。
歌う。
自分の寂しさを、声で散らしているように見える。
クジマの歌には、そういう妙な明るさがある。
鴻田家に来たクジマは、居候として春まで過ごす。
つまり、ずっとここにいる約束ではない。
秋に出会い、冬を越し、春が来るまで。
この時間の区切りがあるだけで、歌の聞こえ方が変わる。
ずっと一緒にいる存在ではなく、いつかいなくなるかもしれない存在として見えてくる。
どういうこと?
そう思った瞬間、ただ笑っていた歌が少し違って聞こえる。
今日も歌っている。
今日も居間にいる。
今日も食卓に座っている。
でも春が来たらどうなるのか。
この家にずっといるのか。
ロシアへ帰るのか。
それとも別の場所へ行くのか。
その答えがはっきり見えないから、クジマの歌には余韻が出る。
家族の中に混ざっているのに、家族ではない。
日本語を話しているのに、日本の生き物ではない。
人間の家で暮らしているのに、人間ではない。
このズレが、歌うたびに少しだけ顔を出す。
いやほんとそれ。
クジマの歌が変に忘れられないのは、音そのものが面白いからだけではない。
そこに、遠くから来た生き物の気配があるから。
知らない町で出会い、知らない家で暮らし、知らない家族の中に入っていく。
その不器用な時間が、歌の奥にずっと流れている。
だからクジマが歌う場面は、笑って終われるのに少し残る。
変な歌だった。
でも、なぜか胸に残った。
この感覚が、作品全体のあたたかさと寂しさを同時に作っている。
第4章 鴻田家の中で歌が変えるもの
ピリついた家に、クジマの声が入り込む
鴻田家は、最初から明るい家として描かれているわけではない。
新は中学一年生。
兄の英は大学受験に失敗して、浪人生として部屋に閉じこもっている。
家の中には、英に気を使う空気がある。
大声で笑うにも少し気を使う。
物音ひとつで空気が変わりそうな、妙な緊張がある。
そこへクジマが来る。
鳥でも人でもない。
ロシアから来た。
日本語を話す。
腹を空かせている。
そして歌う。
うおお、普通なら完全に事故。
でも、この異物感が鴻田家には必要だったようにも見える。
英がいる家の空気は、家族だけでは動かしにくい。
母が心配しても、父が見守っても、新が気にしても、家族だからこそ踏み込みにくい場所がある。
受験に失敗した兄。
部屋に閉じこもる兄。
家族の視線が集まるほど、本人も苦しくなる。
その重さが家全体に広がっている。
そんな家に、クジマの歌が入る。
空気を読まない。
遠慮しすぎない。
でも悪意もない。
ただそこにいて、食べて、しゃべって、歌う。
この無遠慮さが、固まっていた家の空気を少し揺らす。
キツ…。
英の立場を考えると、かなりしんどい。
失敗したあとに家にいるだけでもつらい。
家族の優しさすら重く感じる時がある。
そこに得体の知れないクジマが入ってくる。
最初は落ち着かないに決まっている。
でも、家の空気を変えるのは、いつも正しい言葉とは限らない。
頑張れ。
大丈夫。
気にするな。
そういう言葉が届かない時もある。
むしろ苦しくなる時もある。
そんな時に、クジマの歌みたいな説明できない音が入る。
それが、家の中の重い沈黙を少しだけ崩す。
歌があることで、家族の時間が少しずつ塗り替わる
クジマが来る前の鴻田家には、英を中心にした重さがある。
家族はそれぞれ生活している。
でも、どこかで英のことを気にしている。
居間にいても、食卓にいても、廊下を歩いていても、英の部屋の存在が家の中に残っている。
そこへクジマがいる。
食卓に座る。
日本食を食べる。
箸を使う。
人間の家の道具を器用に扱う。
そして、ふいに歌う。
この小さな行動が、家族の目線を少し変える。
英のことだけでいっぱいだった家に、クジマという別の問題が入る。
問題と言っても、暗い問題ではない。
何者なのか。
何を食べるのか。
どこで寝るのか。
なぜそんなことをするのか。
そういう妙な疑問が次々に出てくる。
どういうこと?
そうなる?
家族が同じ方向を見る時間が増える。
クジマを見る。
クジマの声を聞く。
クジマの行動に反応する。
そのたびに、家の中の会話が少し増える。
重い沈黙だけではなく、変な驚きや笑いが入る。
ここがかなり大事。
クジマは、英の問題をすぐ解決する存在ではない。
家族の悩みを説教で消す存在でもない。
でも、家の中に新しい音を増やす。
今までと違う反応を生む。
それだけで、止まっていた時間が少し動く。
クジマの歌は、その象徴に見える。
歌が流れる。
誰かが反応する。
少し笑う。
少し困る。
少し驚く。
その積み重ねで、鴻田家の空気が変わっていく。
いやほんとそれ。
家族の物語は、大事件だけで変わるわけではない。
朝の食卓。
廊下の足音。
居間の会話。
部屋の扉。
そこへ混ざるクジマの声。
そういう小さな場面が重なって、少しずつ家の感じが変わる。
だからクジマの歌は、ただ賑やかにするための音ではない。
鴻田家の中で、止まっていた会話を動かす音。
英の部屋を中心に固まっていた空気へ、別の風を入れる音。
そして新にとっては、あの日、自動販売機の下で出会った謎の生き物が、本当に家の一部になっていく音になっている。
第5章 ロシアから来たクジマと“帰りたい”気持ち
日本のご飯を求めて来た明るさの奥に、遠い場所の影がある
クジマは、ロシアから来た謎の生き物として登場する。
しかも、日本へ来た動機がかなり生活寄り。
日本のご飯を食べたい。
腹を空かせている。
自動販売機の下で小銭を探している。
この出会いだけで、クジマの奇妙さと身近さが一気に出る。
普通なら、ロシアから来た謎の生き物という時点で、もっと大きな話になってもおかしくない。
研究機関に追われる。
正体を隠して逃げる。
世界規模の秘密につながる。
そういう方向にもできるはず。
でも『クジマ歌えば家ほろろ』は、そこへ行かない。
クジマがまず欲しがるのは、巨大な目的ではなく食べ物。
家に上がり、食卓に座り、人間と同じようにご飯を食べる。
虫も食べられるような生き物なのに、日本のご飯に惹かれている。
うおお、この生活感がかなり強い。
ただ、この明るさの奥には、遠くから来た存在の心細さも残る。
知らない国。
知らない町。
知らない家族。
新に拾われるまで、クジマはひとりで町にいた。
自動販売機の下をのぞき込み、小銭を探していた。
笑える場面なのに、冷静に見るとかなり寂しい。
キツ…。
誰かと一緒に来たわけではない。
仲間がそばにいるわけでもない。
家族の迎えがあるわけでもない。
それなのに、クジマは泣き崩れたりしない。
むしろ、妙に堂々としている。
この堂々とした感じが、逆に胸に残る。
寂しいと言わない。
不安だとも言わない。
でも、歌う。
しゃべる。
鳴く。
自分の声を出す。
クジマにとって歌は、知らない場所で自分を保つための声にも見える。
誰も自分のことを知らない町で、黙っていたら本当に消えてしまいそうになる。
だから声を出す。
歌う。
自分はここにいると、家の中へ音を残していく。
鴻田家に来てからも、クジマは完全に人間の生活へ溶けるわけではない。
日本語は話せる。
食卓にも座る。
箸も使う。
でも、ふとした瞬間に人間とは違う生き物だとわかる。
そのズレが、歌ににじむ。
明るい。
変。
笑える。
でも少し遠い。
この遠さがあるから、クジマの歌はただの愉快な音では終わらない。
春までの居候だからこそ、歌う場面に別れの気配が混ざる
クジマは、鴻田家に春まで居候する。
この「春まで」という区切りが、かなり大事。
最初から永遠に一緒にいる話ではない。
秋に出会い、冬を越し、暖かい春が来るまで。
時間が決まっているから、クジマのいる毎日が少し特別に見える。
秋の空気。
学校帰りの道。
自動販売機の下。
腹を空かせたクジマ。
そこから鴻田家の食卓へ入っていく流れがある。
そして冬が来る。
家の中にいる時間が増える。
食卓を囲む。
こたつや暖房のある部屋で過ごす。
外の寒さと、家の中のあたたかさがはっきり分かれる。
その中でクジマが歌うと、ただの騒がしさではなく、冬を越すための音にも聞こえる。
うおお、ここがしみる。
春になったらどうなるのか。
クジマは帰るのか。
また別の場所へ行くのか。
鴻田家に残るのか。
はっきりわからないまま、家族は一緒に過ごしていく。
だから一回一回の歌が、少しだけ惜しくなる。
今日も歌っている。
今日も家の中にいる。
今日も新の近くにいる。
今日も英のいる家で、変な声を響かせている。
でも、この日常がずっと続くとは限らない。
そう考えると、歌の聞こえ方が変わる。
変な歌。
うるさい歌。
よくわからない歌。
でも、いなくなったあとに思い出してしまいそうな歌。
家の廊下、食卓、居間、玄関。
その場所に、クジマの声だけが残りそうな感じがある。
いやほんとそれ。
家族の記憶は、案外こういう音で残る。
誰かの足音。
茶碗を置く音。
戸を開ける音。
笑い声。
そして、クジマの歌。
姿そのものより、音のほうが先に思い出されることがある。
クジマの歌は、鴻田家で過ごした時間のしるしになる。
日本のご飯を食べたこと。
新と出会ったこと。
英のいるピリついた家へ入り込んだこと。
家族の空気を少し変えたこと。
春までの居候だからこそ、その歌には期限つきの日常の重さがある。
楽しいのに、少し寂しい。
騒がしいのに、あとで静かに思い出しそう。
その感じが、クジマという存在をただの不思議生物では終わらせない。
第6章 タイトルに“歌えば”が入っている重さ
クジマが歌うと、家の空気が少しずつほどけていく
『クジマ歌えば家ほろろ』というタイトルは、かなり不思議。
まず、クジマ。
次に、歌えば。
そして、家ほろろ。
作品の中心が、この三つでほとんど見えている。
クジマという謎の生き物が歌うと、家の中で何かが起きる。
ここで大事なのは、歌う相手が世界ではなく家だということ。
クジマが歌って、世界が救われるわけではない。
巨大な敵が倒れるわけでもない。
魔法みたいな力で事件が解決するわけでもない。
変わるのは、鴻田家の空気。
新がいる。
英がいる。
母のみよしがいる。
父の正臣がいる。
そこへクジマが入ってくる。
家族の中にある沈黙、遠慮、心配、ぎこちなさ。
そういうものへ、クジマの声が入り込む。
うおお、派手ではないのに強い。
英は大学受験に失敗して以来、暗く神経質になり、部屋に閉じこもっている。
家族は英を気にしている。
気にしているからこそ、普通に接するのが難しい。
話しかけるにも気を使う。
励ますにも言葉を選ぶ。
その空気が、家全体を少し重くしている。
そこへ、クジマの歌。
空気を読まない。
でも傷つけるためではない。
重い沈黙を、意味不明な明るさで少し揺らす。
この揺れが、家を変えていく。
「ほろろ」という響きも、壊れる感じだけではない。
ぱらぱらほどける。
少しこぼれる。
固まっていたものがゆるむ。
そういうやわらかい崩れ方に見える。
だからクジマが歌うと、鴻田家の空気が全部壊れるのではなく、固まっていた部分が少しずつほぐれていく。
英の部屋。
食卓。
廊下。
玄関。
家族が何気なく通る場所に、クジマの声が混ざる。
そのたびに、家の中の重さがほんの少しずつ形を変える。
クジマの歌は、正しい助言ではない。
優等生の励ましでもない。
でも、家族だけでは動かせなかった空気を動かす。
そこがこのタイトルの強さになっている。
“しゃべる・歌う・鳴く”の中で、歌だけが家族の記憶に残りやすい
クジマは、しゃべる。
日本語は勉強中なのに、かなり達者。
新と会話する。
家族ともやり取りする。
変な言い回しもある。
その時点で十分面白い。
クジマは、鳴く。
鳥のような外見があるから、鳴き声にも妙な説得力が出る。
人間っぽいのに、やっぱり人間ではない。
言葉を話しているのに、生き物としての本能も見える。
この二重の感じが、クジマの異物感を強くする。
そして、クジマは歌う。
ここがいちばん残る。
しゃべる時のクジマは、人間の会話に参加している。
鳴く時のクジマは、生き物として反応している。
でも歌う時のクジマは、そのどちらにも収まらない。
人間にも見える。
鳥にも見える。
子どもにも見える。
遠くから来た旅人にも見える。
どういうこと?
そうなる。
歌は、言葉ほど意味をはっきり伝えない。
でも、気分は伝わる。
楽しそう。
寂しそう。
機嫌が良さそう。
何かをごまかしていそう。
その曖昧な感じが、クジマにぴったり合う。
だからタイトルに「しゃべれば」ではなく「歌えば」が入っているのが強い。
しゃべれば、説明になる。
鳴けば、生き物の印象になる。
でも歌えば、家の中に記憶として残る。
朝、変な歌が聞こえた。
食卓でクジマが歌っていた。
廊下の向こうから声がした。
そういう場面が、家族の日常に刺さっていく。
いやほんとそれ。
家族の時間を変えるのは、大きな事件だけではない。
誰かの声。
いつもの物音。
何度も聞いた変な歌。
そういう小さなものが、あとから一番残ることがある。
クジマの歌は、鴻田家にとって異物の音から始まる。
最初は、なんだこれ、という驚き。
次に、また歌っている、という慣れ。
そして最後には、歌っていないと少し物足りない、という日常になる。
この変化が、『クジマ歌えば家ほろろ』の核になっている。
クジマが歌う。
家族が反応する。
空気が少し動く。
また日常が続く。
その繰り返しで、鴻田家は少しずつ変わっていく。
だから「クジマはなぜ歌う?」という疑問の答えは、ひとつに閉じない。
楽しいから。
寂しいから。
自分の場所を作りたいから。
家族の空気を少し変えてしまうから。
その全部が、クジマの歌に入っている。
第7章 まとめ|クジマの歌は、鴻田家に残る不思議な生活音になっている
変な歌なのに、家族の時間を思い出す入口になる
クジマの歌は、最初に聞くとかなり変。
鳥のような姿。
人間みたいな手足。
ロシアから来たという自己紹介。
自動販売機の下で小銭を探していた出会い。
そこから鴻田家に入り、食卓に座り、声を出し、歌い始める。
うおお、冷静に見ると情報量が多すぎる。
でも、この作品で大事なのは、クジマの正体を一気に説明することではない。
クジマが家の中で何を変えたのか。
新の毎日、英のいる部屋、母のみよしの心配、父の正臣の穏やかな空気。
その中へ、クジマの歌がどう混ざったのか。
そこがいちばん残る。
英は受験に失敗して、家の中に重い空気を作っていた。
家族は英を責めたいわけではない。
でも心配する。
気を使う。
話しかける言葉を探す。
その遠慮が重なって、家全体が少し息苦しくなる。
そこへクジマが来る。
気を使いすぎない。
遠慮しすぎない。
でも悪意もない。
日本のご飯を食べ、家の中を歩き、ふいに歌う。
その声が、家族だけでは動かせなかった空気へ入っていく。
キツ…。
家族の悩みは、正しい言葉だけではほどけない時がある。
頑張れと言われても苦しい。
大丈夫と言われても苦しい。
見守られても苦しい。
英のように閉じこもっている時ほど、優しさまで重くなる。
だからこそ、クジマの歌みたいな変な音が効いてくる。
励ましではない。
説教でもない。
でも場面を変える。
部屋の外から聞こえる。
食卓で響く。
廊下に残る。
それだけで、家の空気が少し動く。
この小さな変化が、『クジマ歌えば家ほろろ』のあたたかさになっている。
歌うたびに、クジマは“家にいた証”を残していく
クジマは、春まで鴻田家に居候する存在。
ここがかなり大きい。
最初から永遠の家族として描かれているわけではない。
秋に新と出会い、冬を越し、春まで一緒にいる。
その時間の区切りがあるから、クジマの歌は余計に胸へ残る。
今日もいる。
今日も食べている。
今日も歌っている。
でも、この毎日がいつまで続くのかはわからない。
そう思うと、変な歌なのに少し寂しく聞こえる。
いやほんとそれ。
家の記憶は、意外と音で残る。
茶碗を置く音。
廊下を歩く音。
玄関が開く音。
家族の笑い声。
そして、クジマの歌。
クジマの姿を思い出す時、たぶん声も一緒についてくる。
自動販売機の下にいたクジマ。
腹を空かせていたクジマ。
日本のご飯に惹かれていたクジマ。
英のいる家に入り込んだクジマ。
そして、家の中で歌っていたクジマ。
その全部がつながって、クジマという存在になる。
だから「クジマはなぜ歌う?」という疑問は、ただの癖では終わらない。
楽しいから歌う。
寂しいから歌う。
自分がここにいると伝えるために歌う。
鴻田家の空気を少し変えてしまうから歌う。
その全部が重なっている。
クジマの歌は、正体の答えそのものではない。
でも、正体より先に心が見える場面になっている。
人間ではない。
鳥でもない。
ロシアから来た謎の生き物。
それでも鴻田家に入り、食卓へ座り、家族の近くで声を出す。
その声が、いつの間にか家の一部になっていく。
うおお、ここがかなり尊い。
最初は異物だった音が、いつの間にか生活音になる。
うるさいと思った声が、いないと少し物足りなくなる。
変だと思った歌が、あとから思い出すと胸に残る。
『クジマ歌えば家ほろろ』で描かれているのは、大きな事件で家族が変わる話ではない。
見知らぬ生き物が来て、食べて、しゃべって、歌って、家の中に小さな変化を残していく話。
だからクジマの歌は、不思議で、笑えて、少し寂しい。
そして最後には、鴻田家にクジマがいた証として残る。
変な歌だった。
でも、たしかにあの家の時間を動かしていた。
その余韻こそが、クジマの歌のいちばん刺さるところになっている。
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